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防災徒然草

防災徒然草は、14世紀の日本の随筆家、吉田兼好が自らの体験をもとに考えたことや逸話を綴った「徒然草」を真似て、小野裕一や財団のスタッフが、日々の防災への思いを投稿するものです。

border icon12月26日に発生した津波の記憶

2023年12月26日

おそらく、日本に住む多くの人にとって、もっとも印象に残る津波といえば2011年のことではないでしょうか。 

ニュースなどで何度も映像を目にし、学校では全校集会が開かれたり、授業時間を使って被災地のことや防災のことを勉強したりしたため、この出来事を聞いたことがない人は誰もいないだろうと思います。 

 

私にとっては、それが2004年のスマトラ島沖地震の大津波でした。 

 

私は小学校2年生のころ、シンガポールの日本人小学校に通っていました。シンガポールは東南アジアの島国です。南の島ではあるものの、かなり都市化されていて、南国ビーチを楽しみたい時には別の島に行く必要があります。もっとも有名な旅行先はプーケット島で、クラスでも何人かは行ったことがあるほどのメジャーな観光地でした。 

 

小学校2年の冬休みを前にして、私たち家族もプーケット島旅行を検討しました。とはいえ話題にのぼっただけで、実際に行くことはありませんでした。たしか冬休みは家で過ごしたような記憶があります。 

 

スマトラ島沖地震津波があったのは、プーケット旅行の話をした後、12月26日のことでした。プーケット島も津波の被害を受け、冬休みの旅行をしていたクラスメイトが被災して入院しました。おそらく他のクラスや学年にも被災した人がいたと思いますが、よく覚えていません。 

 

テレビでは何度も津波の映像が流れ、学校の集会や授業でも津波のことが繰り返しとりあげられました。 

 

私のクラスでは入院したクラスメイトのもとへ順番にお見舞いに行っていましたが、やがて彼は退院して車椅子で通学するようになりました。入院したクラスメイトの妹が亡くなったという噂もありましたが、それを本人や家族に確かめたことはありません。 

 

それから3年と少し経ったころ。私が帰国し、地元に戻ったのは小学校6年生の時でした。通いはじめた小学校の、音楽の授業の課題曲はTsunamiでした。 

 

びっくりしました。 

 

この先生は3年前の大津波のニュースを憶えていないのだろうか、と思ってクラスメイトの様子を窺いました。しかし誰も何も気にしていないようでした。 

 

スマトラ島沖地震があった時、「日本人は波が引いたら津波がくることを知っていたからすぐ逃げたけど、外国人は知らなかったから面白がって海に近づいて逃げ遅れた」という話や、「日本ではきちんと避難訓練をしているが~」という枕詞を聞きながら津波の勉強をした私は、日本人はみんな津波に対して意識が高いのだと思っていました。

ましてや私の地元は、関東大震災や、それ以前の歴史的な津波で被害を受けている海辺の街です。いくら海外のこととはいえ、日本人も犠牲になった大津波のことは誰もが知っているはずだと決めつけていました。 

ところがスマトラ島沖地震のたった3年後に、地元の小学校で津波と題したラブソングを弾くことになってはじめて、私は自分の考えが間違っていたことを知りました。 

 

音楽の授業では何も言い出せないまま、複雑な気持ちで課題曲を練習しました。結局、小学校を卒業するまで、津波のことは誰にも言いませんでした。やっぱりきちんと言ったほうがよかったな、と今でもずっともやもやしています。これが、私が防災の仕事を選んだ理由のひとつです。 

 

防災意識が高い日本の、100年前とはいえ津波被災経験のある海辺の街ですら、スマトラ島沖地震津波は記憶に残らない出来事のようでした。 

おそらく海外の多くの人にとっての東日本大震災は、日本人にとってのスマトラ島沖地震よりもさらに印象が薄い他人事ではないかと思います。 

 

災害を記憶していない人に、どうやって防災を伝えていくか。災害の実感がない国や社会に、どうやって防災への投資を促すか。これからも試行錯誤していきたいと思います。 

 
世界防災フォーラム副事務局長 小野 天椰 

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